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My Opinions

より人間らしい社会へ

 

 不況が深刻化している現在、このような時こそ私は、芸術・文化活動が見直されるべきではないかと思っています。社会のほどよい競争は必要ですが、現在の過熱しすぎた資本主義競争に対する懸念があります。(経済界の過度な競争により、地球環境を汚染している例も多々あります。)現首相が仰っておられましたが、本来「人間のための経済」であるべきであり、「経済のための人間」ではないのです。経済のために人間が翻弄されてしまっては、真の意味で豊かな生活は実現出来ないのではないでしょうか。GDPに対し、GNH(gross national happiness、国民総幸福量)などという言葉もありますが、経済成長だけに頼らない心の豊かさの追求は出来ないものでしょうか?

  本来、日本人には「惻隠の情」、つまり、弱者に対するよき憐れみというものがありましたが、現在はそれが蔑ろにされ、(経済的に)強い者だけが生き残り、そこに取り残された人間は何も出来ずにおちこぼれていく。その様な事から人と人とのつながり、つまり「絆」も失われかけていく。そんな社会で本当に良いのでしょうか?

 私は、音楽活動を通して、自分の想いが少しでも多くの方に届き、心の憩いの場となれば光栄に存じます。「ひとりの命を救う事は全世界を救うのと同じ事である」というユダヤのことわざがあります。私の音楽は命までを救うことはできないかもしれませんが、この様な教えを大事にして、自分が社会に対して出来ることをこれからも行っていきたいと考えております。

 よりよい未来のために、人間の活動を根本から見直す時期ではないでしょうか。こういう時にこそ芸術は何かヒントを与えてくれるかもしれません。

 

(2010年 3月)

 

 

戦争のない世紀へ

 

 実はこの様な重たい話を掲載するのが本当に良いのかどうか考えましたが、私の身内に戦争体験をされた方がおられ、二度とあの惨劇が繰り返されない様、身をもって戦争を体験されたお二人からお話を伺う事にしました。

年々戦争体験者がこの世から去っていかれる中で、身内に二人体験者がおり、身近に話を伺える環境にある以上、私はその両氏の「生の声」を後世に残す必要があると考え、今回ここに掲載させて頂きます。最後までお読み頂ければ光栄に存じます。

 

 それではまず、私の祖母、寿津子の手記です。

(2010年10月92歳・没)

 

私の願い

私は今年の8月1日に91歳になりました。 お陰様で今の所、足腰困る事もなく過ごしております。家族にも恵まれ、この様に健康に日常を過ごせる幸せに感謝しながら、半世紀以上前の、あの忘れたくとも忘れられない大東亜戦争の悲惨さ、又その中での苦しみ悲しみを思い出さずにはおられません。
大正12年の関東大震災、昭和に入ってからは不景気から銀行の取り付け騒ぎ、そして町には職を失った人達が大勢溢れて居りました。その頃ルンペン節という歌が流行しました。ルンペンとは、仕事のない人の事です。私は子供心によく覚えて居ります。五一五事件、二二六事件等、世の中に不穏な空気が流れ、働く事の出来ない一家の方達は国がすすめる満洲に新しい土地を求めて行きました。この様にして少しずつ世の中が戦争ムードになっていきました。満州事変、大東亜戦争に突入して行ったのです。
支那事変の頃から出征兵士を送るための国防婦人会の方達が、白い割烹着に肩から襷をかけ、日の丸の小旗を振って兵隊さんを見送りました。大東亜戦争の頃からは、遺骨のお迎えも多くなり、朝から晩、夜中でも見送りがありました。町の八百屋さん、魚屋さんのご主人達をはじめ、町から男の人がいなくなり、留守はすべて老人と女性の仕事となりました。出征する事、又英霊となって帰る事を、妻や親兄弟は名誉と思わなければなりませんでした。私は少女時代に外国映画をよく見ました。モロッコ、外人部隊等その頃でも戦争映画はありました。兵士を見送る妻や母親たちが、しばしの別れを惜しんで抱き合い手を取り合う様子はたとえ映画であっても、私達の胸を痛めました。ところがその頃の私達の国では抱き合うなんてとんでもない、まして涙など見せる事なぞ出来ません。明日をも知れない命を前にして笑って見送れといわれて誰が笑えましょう。みんな無表情な能面の様に、見方に依っては笑っている様な、又悲しんでいる様な怒っている様な顔に感じたのは私だけではないでしょう。
原爆もありました。沢山の島で兵隊さんの玉砕もありました。多くの悲惨な出来事の中で私にとって忘れられない思い出、学徒出陣があります。あの日は朝からシトシトと雨が降って居りました。場所は神宮外苑、今の国立競技場、見送る家族の方達、出陣していく学生さん、その実況をラジオを通して聞いて居りました。行進する学生さんの軍靴の響きでした。今私にも三人の男子の孫が居ります。タイムスリップして、もし私の孫達があの時出征して私が見送る立場であったらきっと泣き叫んでいたと思います。感情を表す事も出来なかったあの時代を考えますと感無量です。
戦後半世紀以上が経ちました。あの忌まわしい戦争を体験された方々が徐々に減りつつある中で、世界ではまた核兵器の実験や軍拡などが平然と行われております。わたくしは、唯一の被爆国日本が、もうあのような悲惨な戦争を二度と繰り返さない様に、今の若い人達にもその負の遺産を充分に知って頂き、反戦の想いを世界に発信し続けていって頂きたいと思い、今回筆を執りました。
最後となりますが、もう10年以上前になってしまいましたが、終戦50年を前に天皇皇后両陛下が硫黄島に慰霊の旅をされた時に、美智子皇后様のお読みになられました御歌を捧げさせて頂きます。


慰霊地は  今安らかに水たたふ
如何ばかり  君ら水を欲りけむ

 

 そして次に祖母の従妹にあたります三田村良子さんの手記です。

 

どくだみの花

庭の片隅で増えたどくだみにこのような優しい白花が咲くとは。母娘で髪の毛を引っ張り合い(抜毛=死)、被爆の毒を消すと煎じ、飲み続けた時花は終わり、干した茶色の葉でした。
母45歳、そして私は6歳になったばかり。昭和20年母は東京でしたが、父が広島出身のため、友人の強い勧めで広島市東観音町に住んでおりました。
家族は6人。3人の兄がおり、長兄はその年3月学徒で出征、末兄は比婆郡東条町の寺に集団疎開中の5年生。8月6日夏休みでありながら広島1中1年の次兄は勤労奉仕で早朝家を出ており、私は警戒警報で一旦壕に避難しましたがすぐ解除になり、薄い花のワンピースに着替えました。広い家にかまってくれる者もなく、滅多に外に出たことのない私が友を求め表に出ました。家の回りの鉄柵は供出されたものの、厚い土壁の塀が続き日陰になり真夏のこと、近所の方々が涼台を出し涼んでおられ、仲間に入りました。
その瞬間、崩れた家と、塀の下敷きになり土の重みと真っ暗な中におり、掘り起こされた時、無事な父母が、目の前に居りました。傍の同年の友は人形を抱いたまま動かず、ここでも運命は分かれました。父は庭で、母は幸いにも入口の鉄扉を開けたまま蔵の中の整理に入っており、側に居らぬ私が心配で必死に這い出し、目をやられていました。回りが頑丈な蔵も全壊。庭の大石燈籠が動き崩れているのが目に入りました。
次兄を待ち、父はその場に残り、母娘は近くの天満川に急ぎ、母は途中、潰れた家中から紐、浮き袋がわりの材木、夏布団を抱え、人で一杯の川の中へと石段を降りました。紐で縛った材木に私を掴まらせ、濡らした布団をかぶり、母の機転と布団のお陰で回りの恐ろしい光景は見えませんが川の水が湯のようになり、眠気が襲うのです。
母は私を眠らせないよう話をしたり、叩いたり、そのうちに大勢の方が入って来られ、子供を中に大人が囲み励まし合い、布団の水かけに懸命でした。でも1人2人と眠り、流されていきました。川の水も引き、歩き始めたころ私たち母娘に、火傷を負った方が近づき、「違うな、○○を知りませんか」と言い、その場に倒れました。生死の分からぬ人の山が出来、横たわった人々が母娘の足を強い力でひっぱり「水ー」と。 
次兄が気になるものの母の目の治療もあり、離れた河内村の親類の医者の所へと。途中軍のトラックに乗せて頂き、素足の母娘に履物を下さる方もあり、その日遅く、目の不自由な母と道も分からぬ私が良く辿りつけたものです。
そこは被爆者で一杯でした。直ぐに目の治療に、翌日から次兄を捜しに往復し(第2次放射能を浴びながら)、消息が分からずこの辺だったのではと人の山を焼いた跡の白い骨粉を持ち帰りました。
後に遺髪の入った箱が届き、亡くなったのは7日夜だったそうです。即死なら苦しまずに済みましたものを生き地獄の中、13歳、どんなに母に会いたかったでしょう。頑健な無傷な父が1か月も経たぬ8月30日原爆症で亡くなり、寂しい野辺送りでしたが、家族に看取られ死ねる者は幸いでした。父と次兄を亡くした母は、嘆く間もなく末兄を引き取りに、あれからかなりの日時が過ぎておりましたが、寺の階段に坐り多くの生徒さんが迎えを待っていました。兄の私達を見た時回りを気遣いながらも嬉しそうな顔忘れません。
何年も草木も生えぬと言われた地を離れ、その年12月母方の親類を頼り、上京しました。征って間もない長兄の戻りを固く信じていた母に酷にも北支戦死の公報が入り、私の1年生に上るセーラー服姿を楽しみにしていた心優しい20歳の兄、戦場の毎日はいかばかりだったでしょう。
働き手、家財全て無くした母の苦労の始まりです。金歯までも兄妹の食になり、朝から遅くまで和裁の仕立て、これから少し楽をさせてあげられる矢先でした。51年1月6日76歳でこの世を去りました。被爆の体で良くここまで頑張ってくれました。
精神的金銭的にも苦の道を余儀なくされた母の口から、辛さや愚痴を聞いたことはありません。この素晴らしい生き方は私も見習いたく思います。きっと今頃は会いたかった2人の息子に囲まれ、父の謡で仕舞でも、母の謡の声が聞こえます。
家族中唯1人被爆を逃れた末兄も大変苦労を致し、父と同じ東大を出、現在に至っております。
女として生まれ、母に孫も見せられず子供が好きな私がこの世に子を残せなかったこと、非常に寂しく残念に思います。いつ死ぬのか、子供にどんな影響があるのか、マスコミで被爆者被爆2世のことが大きく取り上げられるほど母娘はとじた貝のようにだまり、何事にも消極的になりました。
歴史上戦争の悲惨は数多くありましたが、いつどのような状態で病死が訪れるのか解からぬ恐怖と、何年経っても子を生むことを躊躇させる長く続く戦いが、今迄にあったでしょうか。
61年4月、他国でのチェルノブイリ原発報道も大変胸が痛みました。悲しみ苦しみの連続でしたが、隣人沢山の方々の温かな愛にこれまでどれだけ救われたことでしょう。感謝致すと共に多くの方々のご冥福を祈りつつ心静かに生きたいと思うこの頃です。
強くて可憐な花を咲かせるどくだみ。地の中で芽を出す準備をしているのでしょうか。今は枯れております。
(「ふたたびくりかえすまい 私の戦争体験記」より)

 

(2008年7月、三田村さんはNHK広島の「被爆者からの手紙」というコーナーにご自身の想いを寄稿されました。お読み頂ければと思います。)
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/tegami/05.html

 

 私は、三田村さんの被爆体験や、8月6日以降の広島での処理しきれないほどの遺体のお話などを伺う事により、三田村さんのその後の人生が大きく変わり、大きな悲しみと苦痛、そして普通の人であればごく普通に叶えられたであろう事が出来なかった絶望感など、慮っても測りきれないものを感じ、絶句致しました。彼女自身も、いつも戦争の話をしている訳ではなく、忘れてしまいたいのでしょうが、幼少6歳の時に体験した悲惨な体験を忘れようとしても忘れられず、一生深い心の中に残りつつ、また被爆者としていつ病苦が襲いかかってくるかも分からない状況の中で、明るく元気に生きていらっしゃるその人生に対する強い姿勢に、大きな感銘を受けると共に、また「自分もまだまだ頑張れるぞ!」と勇気付けられもしました。この様な強い精神を持った方を前に、若い世代がもっと「夢と希望のもてる社会」を目指していかねば上の世代に申し訳がつかないとも感じました。
確かに現代生活を普通に営んでいくにも様々な問題があり、「昔に比べ今の方が楽だ」とは言い切れない現代人としての問題を我々は沢山抱えています。
ある知人のオランダ人の方に「日本は相当ソーシャルプレッシャーが強いんだろ?」
と言われた事がありました。ルーマニアでもその様な事を言れれた事がありました。
私はそれまで「ソーシャルプレッシャー」などという言葉を使った事がなく、「社会からの目」という意味なのでしょうが、まさか外国の方が日本をその様に強く思っているとは知りませんでした。つまり欧米の人からは、そう思われている部分もあるという事でしょう。会社でのノルマや成果主義、酷な残業など、制度的に限界がありましょうし、資本主義自体にも限界があり、今まで通りこの道を盲目的に進んでさえいればよいという風には私には思えないのです。
経済成長中心の考え方から、文化や信仰心を重んじ、生活の物質的な質から精神的な質へと回帰した、日本の伝統的な自然観などを大切にした社会には戻れないものでありましょうか?貨幣では測れない別の価値観も沢山ある様に思います。
戦争の話からやや飛躍してしまいましたが、我々は、上の世代の戦争体験を貴重に捉え、人類の、真に進むべき道を皆で考え、その様な構想をもっともっと大きなスパンで捉えられる様な社会になっていければと願っております。
オバマ大統領のプラハでの演説にもあります様に、世界が少しずつ「核廃絶」に向けて動き始めた様に感じます。被爆者であります三田村良子さんは、当事者として、それ以前からずっとその事を訴え続けてきました。その活動がようやく、少しずつ広がりを見せてきた事を本当に嬉しく思います。被爆者と、その事を理解する少数の人達だけの活動が、やっと大きな輪に変わっていく良い流れになり始めました。この流れが縮小する事なく大きな潮流となる事、そしてたとえ数十年、またはそれ以上の歳月がかかっても、この大きな理念が成し遂げられる様、心から願います。
真の平和を願う気持ちはベートーヴェンをはじめ、多くの音楽家が望むものであります。また音楽には、人の心を平和にさせる無限の可能性がある様に思います。私自身も音楽に助けられ、また音楽が心の支えになる事が多いのです。ですので、私も演奏活動などを通し、この想いを多くの方に伝えたいと思います。

長くなってしまいましたが、最後までお読み頂き、有難うございました。

(2009年 8月)

 

 

 

 

四季(Die Jahreszeiten)

 

 先日ハイドンのオラトリオ「四季」を観た。
ハイドンのオラトリオというと「天地創造」がまず先に思い浮かぶかもしれないが、この「四季」も高逸、雄大な曲であった。
マタイ受難曲またはヨハネ受難曲ほどの宗教性・精神性は持ち合わせていないが、厳しい越冬から春を待ち焦がれる農民の想い、また春夏の畑作の時期から秋の収穫の時期へと移ろいゆく季節の中で、神に豊作を願う歌、または鹿狩りの光景を描いている曲(ホルン)、更には収穫後のワイン作りの様子をレチタティーヴォで語ったりと、ごくごく素朴な当時の農村生活の四季を通して「神と人間と自然に対する讃歌」がハイドンの語法により展開される。(フーガの技法においても、コーラスの各所にその技法が鏤められており、バロック時代のバッハの偉大な遺産を継承し、後のベートーヴェンの時代にまで伝承した彼の業績は多大なものであろう。)全体的に荘重なるも、快活で陽気さの漂う作風はいかにもハイドンらしい雰囲気を醸し出している。
そもそもオラトリオという形式は、宗教的・道徳的題材を劇的に扱った大規模声楽曲の事を意味するのだが(四季のように世俗的なオラトリオも存在するが)、劇的といっても内容的に劇的なのであり、オペラの様に演技をする訳ではない。平たく言えば、演奏会形式のオペラとも言えそうだ。(余談ではあるが、もとはオペラなのであるが、セットと演技を入れずに、劇場ではなくコンサートホールにて演奏だけされるケースもある。昔、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」をこの形で観た事があるが、それはそれで趣のあるものであった。)そしてこの「オラトリオ」の起源は16世紀のローマまで遡り、当時教会で開かれた宗教的集会「オラトリオ会」に於いて、会員の教化の為に導入された宗教的ラウダ(ラウダとは、中世イタリアの民衆的伝統に属する宗教詩、及び歌曲の事をいう)あたりに起源を発する。聖句をそのまま使用しない点に於いて、厳格なミサ曲(レクイエム、スターバト・マーテル、受難曲etc)とは異なるものである。
18世紀のオラトリオの代表作としては、ヘンデルの「復活」(1708)、「メサイヤ」(1741)や、バッハの「クリスマス・オラトリオ」(1734)などが挙げられ、19世紀以降の作品には、メンデルスゾーンの「エリヤ」(1846)、ベルリオーズの「キリストの幼時」(1855)、ストラヴィンスキーの「エディプス王」(1927年作、ジョルジュ・エネスクも同名のオペラを作曲している。因みにフロイトの精神分析学における「エディプス・コンプレックス」とは、このギリシャ神話に拠るものである)などがある。
なお「四季」という題名は、チャイコフスキーのピアノ曲集や、グラズーノフのバレエ音楽にも使われている。ヴィヴァルディーのそれはあまりにも有名である。

(2008年 3月)

 

 

信仰心について

 

 厳密に言えば、キリスト教徒ではない私が、バッハやフランクなどの宗教音楽を演奏して良いものであろうか、と考えさせられる時がある。
その問題は、ひょっとすると日本人の大多数に言える信仰心の問題に繋がるかもしれない。12月25日にはキリスト教の儀式であるクリスマス、元旦には神道の儀礼である初詣、お葬式は仏教の慣わしに拠るところが多く、私を含め多くの日本人は各宗教の儀式のいいとこ取りをしているだけ、あるいは、イベントを享楽的に楽しんでいるだけに過ぎないのではなかろうか、と考えてしまう事がある。自分自身は家が仏教であるので一応仏教徒であり、キリスト教徒として洗礼を受けた人間でもない。
しかし、その様な時、ルーマニアでイースターの儀式に参加した時の事を想い出す。ある教会の儀式で、「私はキリスト教徒ではないのだが、キリスト教を慕う気持ちがある。」と隣人に述べたところ、「それで充分だ。」と言われて、敬虔なキリスト教徒と同じように私を寛大に受け入れてくれた。その経験が私の信仰心に対する煩悶を吹き飛ばした。
本来であれば宗教を「掛け持ち」してはいけないとも思うのであるが、日本人の神仏混合も含め、多神教である日本人の感覚(厳密に言うと多神教という言葉の定義は違うが)も悪くはないのだなと感じさせられた経験であった。

(2007年12月22日、24日 サロンコンサートにて)

 

 

夢を追い続けること

 

 私は三歳の頃にピアノを始め、その後中学部を卒業するまでずっと趣味で続けていました。高等部入学時に「自分にとって本当に打ち込める事」というものを考え、音楽の道に進もうと決意しました。高校一年生の時は、もともと運動好きでスポーツもしていたいという思いから、アメフト部に所属しました。そこで、とても良い経験を得ながらも、その一方で二足の草鞋を履く事の辛さも実感しました。ピアノのレッスンの為、アメフトの練習に参加できない状況が続き、その事が自分を苦しめ、また周りのメンバーに迷惑をかけてしまうと感じ、結果一年で退部しました。この時に学んだ事は「何か一つの事に専念する為には自分の中で犠牲を伴う」という事でした。そのような事はその後の人生で多々あり、良い演奏が出来ない時などには「何でこんなに犠牲を払ってやっているのに上手くいかないのだろう」と後ろ向きに考えてしまう事もありました。しかし、現在プロ活動が出来、沢山の方が応援して下さっているという、今までの犠牲を差し引いても余りあるだけのものを得、更に厳しい鍛錬の暁に得られる人間的な強さ、音楽そのものから得られる音楽の素晴らしさなど、より尊いものを私はピアノから得ることが出来ました。過去の努力が明らかに今の自分に繋がっていると実感出来ます。「夢」という言葉が小原國芳先生のお言葉でもある様に、色々な努力や犠牲の先にある「大きな夢」を追い続けられれば、人として素晴らしい人生を送ることができるのではないでしょうか。

(2006年9月、玉川学園K-12 父母会報に掲載)